小川三江の日記

小説を書いています。皆様の感想をうかがいたいです。よろしくお願いいたします。

木犀

 人間に備わるもののうちで・人間が見つけたもののうちで最もすばらしいもの、笑顔、優しい言葉、誠実な瞳、高きものに思いを馳せる魂、天上の住処、連帯、香るキンモクセイ。思いがけず突然に、キンモクセイの香りは私の鼻孔を音たたく。それはほんとうに唐突に風に運ばれて来、私はほとんど本能のように歩みを止めた。この世をはずれた極楽から来た香しい、ほんとうに香しい秋の訪れ。こわばった頭の片隅を優しくほぐす金色の、甘いにおいが風に乗って私のまわりに遍満していた。だが、どこにもキンモクセイの木は見当たらないのだ。私はまだ足を止め道の真ん中で、人々に追い越され追い越されして、それでもまだキョロキョロと、幾重にも厚い香気の出所を探っていたのだ。香りに打たれてうろたえて、目を大きく開けて、子供たちも主婦もおとなしく歩きすぎてゆくのに。誰も私に気をとめない、音もなくやって来たキンモクセイに誰も気を向けないように。いや、本当はその(甘たるい)においには気づいていて、だからそれで余計私たちを知らんふりしているのかもしれない。そうだったらやりきれない。私は自分が嫌になる前に、もう一度それを嗅ごうと、心持ちかかとを挙げて鼻を宙につきあげ、吸った。すると、ふいに白い膝下までのワンピースに同じく白いタイツと靴の婦人が私の後ろから追い過ぎ、三歩行ってふり向いた。眼まで覆う大きな鍔の麦わら帽子の下から、たおやかな黒髪が流れ出してい、潤うピンクの口元はほほえんでいた。婦人は、こっち、と声もなく唇を動かし言ってまた歩き出した。ただ、ただついてゆく。私は思う。あれは人間のうちで最もすばらしい人々、花を愛する人と。