小川三江の日記

小説を書いています。皆様の感想をうかがいたいです。よろしくお願いいたします。

「世界に誇る日本の伝統」は私たちを助けてくれない。

 聞いてほしい。先日発表された国勢調査で、日本の人口が1920年の調査以来はじめて減少を示したと伝えた。子どもが減っている、超高齢化社会の様相が、今年からさらに度を増して進行する、その現実的なしるしがはっきりと表されたそのひとつだろう。子どもが減れば土地が衰える、地方が衰える、労働人口が減る、税収が減る、税収が減れば社会保障もどんどん減る、だれが年衰えた私たちを世話してくれるのだ? 現在でさえ介護はおおきな問題になっているのに、私たちはそのときまでに爆発的なロボット技術の発展で介護ロボットを自由にさせているだろうと、そんな馬鹿げたふうにだれも信じていないはずなのに、どうして私たちは将来の社会を支える子どもの数を減らしに減らして、いま平和ヅラしているのか? 労働人口が減ればかつてのような経済成長が見込めるはずはないではないか。お得意の「世界に誇る日本の伝統」が、私たちの窮境を救ってくれるのだろうか。ソニーが買収されたが、まったく馬鹿な話だ。人が死んだときはじめて、その亡くなった人の存在を思い出すように、伝統が失われ始めたからこそ、あらゆるところでそれが喧伝され始めた。伝統はつくることができるなんて、そんなことまともな人間ならだれでも知っている。そして、私は思うのだが、右翼思想をもつ人びとよ、あなたたちがしなければいけないことはそんなボロボロの(日本は中国におよびもつかないほど負けている、現実を見よ)伝統を世界に誇示することではない、子どもが減っているんだぞ? 少しは頭を働かせろ! 将来世代の人口が減れば、あなたたちが誇る伝統を受け継ぐことができなくなる。日本が世界と渡り合う余地はどんどんどんどんどんどん少なくなる。それをあなたたちは望んでいるのか? すくなくとも私は望んでいない。私は怒っているよ。どうして現在の経済のことしか考えられないのか? 防衛費が5兆もあるというではないか。そのいくらかを、たとえば幼稚園が今かかえている幾重もの問題を改善するための予算にあてれば、今後どれほどの夫婦が救われることだろう。私は、右翼の人びとが天皇を大事にせよと訴えたり、日本の美を讃えたりしても、まあそれはそれでいいよ、人それぞれだし、と思う。しかし、現実的な問題について政権の動向を批判しないのはフェアではない。日本が滅んでも、あるいは将来的に外国人居住者を迎え入れたりすることに反対しない右翼がいるとは思えない(私自身は、日本が滅ぶのはいやだけど、外国人を迎え入れることにはそれほど反対ではないが、現実的な状況を見ないといまはその程度のことしか言えない)のに、なぜ子どもたちが減っていることに怒らないのか。右翼も左翼も日本には生きている。そして、右翼も左翼も子どもをつくる。子どもをつくるとは、そんな思想よりもずっと大きな現実的な問題なのだ。衰えた伝統にすがるのはやめにしよう。安吾は伝統なんて滅べばよいと言っていた。私は日本が幸せな国になってほしいと思っている。

木犀

 人間に備わるもののうちで・人間が見つけたもののうちで最もすばらしいもの、笑顔、優しい言葉、誠実な瞳、高きものに思いを馳せる魂、天上の住処、連帯、香るキンモクセイ。思いがけず突然に、キンモクセイの香りは私の鼻孔を音たたく。それはほんとうに唐突に風に運ばれて来、私はほとんど本能のように歩みを止めた。この世をはずれた極楽から来た香しい、ほんとうに香しい秋の訪れ。こわばった頭の片隅を優しくほぐす金色の、甘いにおいが風に乗って私のまわりに遍満していた。だが、どこにもキンモクセイの木は見当たらないのだ。私はまだ足を止め道の真ん中で、人々に追い越され追い越されして、それでもまだキョロキョロと、幾重にも厚い香気の出所を探っていたのだ。香りに打たれてうろたえて、目を大きく開けて、子供たちも主婦もおとなしく歩きすぎてゆくのに。誰も私に気をとめない、音もなくやって来たキンモクセイに誰も気を向けないように。いや、本当はその(甘たるい)においには気づいていて、だからそれで余計私たちを知らんふりしているのかもしれない。そうだったらやりきれない。私は自分が嫌になる前に、もう一度それを嗅ごうと、心持ちかかとを挙げて鼻を宙につきあげ、吸った。すると、ふいに白い膝下までのワンピースに同じく白いタイツと靴の婦人が私の後ろから追い過ぎ、三歩行ってふり向いた。眼まで覆う大きな鍔の麦わら帽子の下から、たおやかな黒髪が流れ出してい、潤うピンクの口元はほほえんでいた。婦人は、こっち、と声もなく唇を動かし言ってまた歩き出した。ただ、ただついてゆく。私は思う。あれは人間のうちで最もすばらしい人々、花を愛する人と。

  濡れた枯れ葉の上を歩いて、僕は今日も駅へ。枯れた葉はしっとり水を含んだ土の上に落ちた椿や楡の葉、そして僕には名前のわからない木の、ギザギザの、灰白色の乾いて丸まった幾種もの葉で、それが公園の入り口まで敷き続いている。僕の一歩ごとに、足はくしゃ、カサ、と葉を踏み、また軽く蹴り上げ、次の脚を出す直前、枯れ葉の下の濡れた黒土に優しく包み込まれる。僕はその柔らかい感触の一歩ごとに歩みを止めたい誘惑に掴まれそうになり、そのたびに大きな抵抗感とともにもう一歩前に踏み出る。土は樹々の梢から空ののぞく、陽のあたるところでも濡れている。朝の霧が晴れる前、くるりと反った枯れ葉のすき間にしのび込んだ水の粒粒が、ゆっくり土まで下りていったのだと僕はアテもないことを想像する。出口の門から向こうには、不思議と一片の葉も落ちていない。僕は気になってその境のところで振り向くと、蛇行する並木、それを囲み薄暗い林をなす樹々の幾倍も大きい欅の木が一本、公園の林から突き出ているのを見た。都心の公園にあってひとつその樹は落ち着いた雄大さをたたえいていた。風が葉を翻すと欅は、ざあ、と大きな音とともに全身を銀と黄緑のゆれるモザイクとなす。ふいに音楽プレイヤーからの音がやみ、揺れる緑と銀の欅の葉から、幾千、幾万のムクドリの甲高い鳴き声が湧き立った。かまびすしい小鳥たちの囀りをたたえた風に輝く欅の樹を、僕は城だと思った。

「虫かごの子ら」

 やわらかい音をたてわずかに、確実に喉奥へ吸引している。ざらざらしたものが露出した場所をさらうと快い波がはしる。口腔が狭められ屹立したものを大きくめぐる舌の運動がくり返されると、蜜を吸う甲虫の口の動きほどに繊細に、その裏筋を中切歯に擦過されて、たくましい割れ目から湧くべっこう色の樹液さながら潤い満ちただ液の湖に、黄白色のおれのものが注ぎこまれた。背骨の山々を駈けぬける快感に暴力的なまでに圧倒されて視野が昏み眼をとじた。暗い眼が股のあいだに二つ開いているのがわかる。

 

 弟の介添えをうけておれは風呂に入れてもらう。電動式の車椅子に坐ったまま自分の手で上着類を脱ぎズボンのホックをはずしファスナーを下げる。弟が脚から抜きやすいように上体を左右に交互に浮かして、その合間に腕を尻の下に挿し入れてズボンをずり下げる。腿まで下りたそれを弟が一息にさらった。細くまばらに毛の生えた大腿部が脱衣所の青白い明かりに浮かぶとおれは意識の底で小さな恥の虫たちが身じろぎするのを感じる。絶対的な運動刺激の欠如で骨とそれをくるむ皮ばかりの、かすれた刷毛を一筆掃いたていどの体毛を散らしたそのもの。弟は何ほどのこともないと続けて下着を剥ぐと、そのまま車椅子からおれを持ち上げて裸の尻を冷たい体重計の上にのせた。幼児三人分の質量を電子板が示したのを確認すると、――健康そのものだね、今日も、といった。それを聞いてさかんにうごめきを増すものらを鎮めるために、おれはおれだけに聞こえるほどの吐息をつくが、他愛なくまた脇を抱えられて持ち上げられる。このときのおれはじつに無防備で無力で、それを見るものは飼育員に樹から樹へと移しかえられるコアラを思わせるだろうとおれは想像した。そして足の機能不全をかかえたコアラたるおれはの飼育係であり唯一の観覧者でもある弟は、今日も体重計から浴室の湯いすに幼児三人の重さの兄を運んだ。――まったく熱いなあ、ほんとうに、と浴槽をざぶざぶいわせて木桶で湯を汲みぶっつけるみたいに露なおれの躰にうちかける。そして、石鹸をタオルに泡だて右の耳の裏から順に、脇、尻、その割れ目、足、足指の関節のくぼみまで弟はじつに着実におれを洗う。おれは美術館に展覧された石像みたいに清潔にされていくと考え、だがおれの自意識はおれの半身はもうほんものの石膏ほどにも硬い物質性を確実に帯びていたことを思って蔑む笑いを笑った。タオルの粗い目が下腹、陰毛をひと撫でしそして性器の先端をまわって陰嚢、会陰部へと荒くなでるようにわたると、端的な快い刺激が走り熱い息が押し洩れそうになるのを下腹でふんばって堪える。そのあいだわが三助は、――mobilize、動員する、immortal、不死の、と今日こなした英単語を口に含むように諳んじていた。そしてそのまま背後にまわって背を流しはじめると、あるところで重く大きいものにぶたれたときの鈍く痛いものが尾骨からつたわって背の中腹まで踏みわたった。――痛かったかなあ、痛かったろうなあ、と弟が膜に隔てられてくぐもり湿った声でいった。

 弟が泡を流すために木桶に湯を汲んでいるあいだに、痛みの退潮につれてじんわり熱を帯びる尾骨を後ろ手にさすると、皮膚の下に金平糖が埋まっているようで、自分の躰ながらあらためて凄いものが肩をつかむようだった。金属バットで足の骨を複雑に折られたのと一緒に砕かれたままになっていた。おれはそのころ、おれたちのあいだの年長の実力者についてまわって使い走りをしていた。ときにその年長者はおれたち非力な者らに窃盗や強姦まがいのことをさせ、うまくやった者に金をくれた。やつもおれたちも暇と性欲をもてあました、地方都市の少年の元型みたいな存在だった。おれはその暴君からの「課題」をこなしているあいだに、不意に立つ突風みたいな暴力の襲来で足の骨を砕かれ、数箇月ののち電動式の車椅子に坐っていた。同級生の女に何かわいせつなことをするように言われていた。どんなことが実力者を満足さすのかわからなかったが、おれは狙いをつけた女の背後にまわり街灯の明かりが切れたところで垣に押しつけた。おれは自涜しようと思い、そのためにあらかじめファスナーのあいだからまだ包皮が執念くくるんだ性器を夜気にさらして近づいた。女が逃げないように手を動かすのはまったくやっかいな仕事だった。おれは右手で女の腕を抑え、左足で女の靴を踏みつけてしごいた。叫喚を封じる措置を失念していたのに気づいたのは、女がおびえてカチカチ歯を鳴らしているのを見たときだった。下腹に充実した感覚が溜まる。おれは眼を上げ、おれはこの女に射精すると思い性的な登り坂を駆けあがったそのとき、何か鈍い音のあと不意に腰が抜けたように膝が崩れ、脚が内側から真空を押し広げた。もので殴られたのだとわかった。女はもういなかった。腰の空洞に痛みが湧いてきたとき、おれ再び同じ打撃を今度は足首に受け、連続してそれは下半身の全体に降りかかった。大きな男は脚のみをつづけざまに打ち、それは重い音、軽いと音を立てて砕かれた。わからないがそのときおれは、無感動に恐ろしい力を加えられているそれはおれの脚ではないと考えた。側を通りかけた人間か野犬が何か喚くのが聞こえた。それは長く続き、夜の空に高まり、また高まりして昇っていき、そのあいだも金属バットを棍棒として振う男は暗い眼を剥いてた。平らな二つの眼が夜の底に浮かび、おれを見ていた。おれはそのとき、おれのなかのやわらかい部分が男に露にされているのを感じ、逃げ出したいほどの恥辱に脚の痛みよりも躰が焼けるようだったのをのちに思い出した。しばらくしてもう痛みは湧いてこず居残ってもおらず、暗く沈んだ視線にまだおれが眺められ、木を割る多様な音が夜の淵に立った。

 風呂のあとにはトイレに向かう。日に一度おれは弟に擁けられて便坐にかけ排尿する。自室にはペットボトルを置き、尿瓶代わりに昼間は使う。部屋におれを戻すと自室にもどった。壁にそって据えられた籠の上辺にとりつけた小型の電灯をつけてまわる。蛍光灯の黄ばんだ明かりに、籠の中のものたちがわずかに身じろぎする硬く小さな音を立てたようだった。土に後ろ足でふんばって透明なアクリルの壁面に腹を押しつけ銅色の足毛が明るい甲虫。乾いた羽音を鳴らす同じく捕らわれたものたちにぶつかりながらも狂ったように枝から飛び立っては留まり、また飛び立つトンボ。悪い夢をいっぱい満たした頭をおがくずの山につっこんで坐りこみ、汗を流し、蛍光灯の照り返しに背をてらてらさせた黄金虫。死んだ仲間を齧る蟷螂とザリガニ。飼育用のゼリーに口を汚した白蟻とその白い子供。それら籠の中の虫たちの視線のなかを、それぞれの籠の前を確かめるように弟は一巡りした。また口にぶつぶついわせていた。ひとつの籠の前で止まると蓋を上げて、老いて翅のよれたトンボを掴み出し、蛍光灯の上庇にのせた。よれてしわに縮んだ翅は、下から射す黄白色の明かりに透かされて多様な奥行きをもつ層をなした。――ああ、と嘆声が洩れた。プラスチックの板の上でそれはもがき、あがきたてる足を止めると今度は飛び立とうとしわよって薄い翅を一心にふるわせ、疲れるとまたあがいた。無益に酷使されて腹と翅のつけ根から白いねばこい汁が糸をひいて板に伸びた。弟は胸を震わせながら指を口に含むとそのまま傷ついたトンボの粗い複眼、前足、敗れた腹から胸をまわって背へと温かく濡れた指で撫でた。弟の愛撫に躰を熱くしてやさしい音が歯を透かして洩れたのを、おれは暗い自室で聞くようだった。

 夜が奥まって深く更けてゆくころ、眠りの上を沈んでいく足音が部屋の外をゆっくり流れていくようなことがあった。そう遠くないところで何か詰まった物が床におろされるひかえめな重い音が壁越しの廊下に浮かんだ。まだ眠りに浸された頭でおれは試験勉強の合間に弟が虫籠を持ち出して何かしているのだと思い、――また分からないところにあたったのか、それとも眠れないのか、と丸く明瞭さを削ぐ壁越しに訊ねた。弟はあいまいに夜を震わせる低い声でしばらくこたえかけて、突然に、――それでぼくはこいつらを歩かせているんだ、と曇った言葉の靄をぬっておれの耳を明かに刺した。――どうしてだ、夜更けにどうしてそういうことをするんだ、――こいつらはぼくに飼育されているだろう、牛だって広い原で話されるといい肉になるというだろう。(弟の声はあるところで奥に笑いを含み盛りあがるようであるかと思うと、うしろの方では苦いものを噛んだようにあいまいに落ち沈んでいく)こいつらはぼくに飼われているから、ぼくは楽しみをあたえてやりたいと思っているんだ、こうやってぼくらは自由にしているんだ、――そうだな、いちいち説明に膜をかぶせるのがおまえたちの年頃でかかるはしかみたいなものだものな、とおれはおれの方こそあいまいに弟を責めた、――だがおれをはぐらかすのはよせ、そしてはやく眠れ、――ぼくはまじめだよ。こいつらはぼくの下でおのおのが楽しみをもつ自由な時間を得ているし、ぼくはぼくの持ち時間でそうしたいと考えているんだ、ねえ、わかるだろう。散歩は楽しみなんだ。おれはひとつ、そうか、と答えたが、それは部屋の壁を越えてあいまいにでも弟たちのいる廊下へ届いてはゆかず、喉から洩れて天井まで上ると暗闇の霧のなかに消えた。外では弟かあるいはその仲間どもが笑ったようだった。重たい気配が廊下をわたり、扉が開いて閉じた。

 幾日かしきりに降っていた雨がやみ、しかしまだ満ちたりないように雲が湿った地を覆うていた日、街の子供たちが垂れた空に圧されて灰色に狭くなった道を、その重さに困り果てたように俯き眼にぞろぞろやってきた。週のその日は、わずかな金を代金におれが町の子供に試験勉強を教える日だった。おれが教える様子に子供らはかくべつ反応を示さなかったものの、その親たちはわずかでも定期テストの点数が前のときより上であると喜んで、月謝がこれでは申し訳ないというようなことをしきりに言い立て、菓子折りを贈って寄越したりしたが、また考査が迫るとそれも忘れて憑かれたように子供のだらけを詰った。だからおれはおれのやっていることでだれも本当には満足していない、その場しのぎだと考えた。ただ月をしのぐ分には、とる金は多いくらいだった。おれにはただ親たちの不満のタンクをいっぱいにしないように気を配ることが大切だった。子供は絶対に無害だった。おれと肌の合わない子供も、おれの話に端的な忌避の身ぶりを示すことはあっても、皆ここでの時間の過ごし方を知っていた。かれらは授業のあいだ胸で机をふさぎこんで坐って頭を俯け、その上を踏みつけてまわるおれの言葉の足踏みが止むのを待つ、自己閉鎖した気配に硬く躰を縮こめていた。弟は部屋の戸口に立って、長机に坐るものらの様子を見ていた。不意に先晩の弟の霞で巻くようだった壁越しの声が、問題を解説する頭のすみにぼうっと過ぎ、冷たいものに躰をつかまれた気がして、逃れて奮い立つように声を大きくした。

「なあ、フランス革命が起きたきっかけはなんだった? そうバスティーユ牢獄を王政に反対していた人々が襲ったんだった。そして暴徒と化した民衆はついに十六世の首をギロチンで落としたんだったな。ここからが今日の話だが、テキストを開いてくれ、そのあと、マリー・アントワネットも処刑された、書いてあるな、ケーキを食べればいいじゃない、といった后だな、ははっ、王政が終わってそれでぇフランスは共和制ってのになった、太字の共和制にマーカーする、これで人々はましな暮らしがおくれると思っただろうなあ、でも、なあ赤いきみ、マーカーをした下に何とある? ありがとう、『ジャコバン派が台頭し、M・ロベスピエールが恐怖政治を行う』、ジャコバン派にマーカー、太字のロベスピエールにマーカー、恐怖政治にマーカー、この男もむごい政治をやって政敵をギロチン台送りにしていたんだ、よくいわれるのはダントンだな、はっ、ダントンの死だな、ははっ、結局ロベスピエールも民衆の反感をかって逮捕された、それでギロチン台の下さ、人がどんどん死ぬ、まあちょっとした時代のひとつだったんだ」

 指示どおりにマーカーペンを動かす子供らと同じく頭を俯けておれは一息にいった。視界の端、戸口のほうに意識がゆこうとするとまた冴えたものの気が底から湧いてきそうで、おれは一人頭を右へ左へ向けかえた。するとおとなしい獣よりもなお静かにおとなしい石を思わせるものらのつらなりのなかで二つ突出した、すがるような眼とぶつかった。それはおれが「ギロチン」というたびに背をびつくかせ硬く躰をおののかせていた子供だった。かれは少し知恵が遅れていると思わせるところがないでもなかった。耳がもたれてくる甘たるい声だった。

「ねえ先生、ギロチンとはそれが落ちるときはどんなものなのかなあ、首枷におさえつけられたら、もうあとは落ちてくるのを待つだけだものなあ、なあ先生、ギロチンが首に触れるまでの時間とは永いものかなあ、それとも、牢の中で今朝も一緒に目を覚ましたやつと、その次の昨日パンを分けてくれたやつとのあとが自分だ、と順番を待って考えている時の方が永く感じるものかな。ぼくにはどちらもおそろしい。ギロチンの刃が落ちる、そのときにはシュルシュルシュルシュルとかシャー、シャー、とかいう音が聞こえる…」

 見られているのが分かった。そしてそのために大急ぎでたしなめた。

「そういうことはきみにはない、声が大きいぞ」

 それを待っていたように子供は道化たように顔を崩すと言った。

「そうだろうかなあ。ぼくはこのあいだ、どこかの武装集団に捕らえられた男たちが、ひとりずつ岩場に押しつけられて銃で殺されていく映像を兄と見て、まったく人間は簡単に壊されるものだと恐ろしかったよ。ぼくは頓馬だからねらわれやすいだろうなあ、ああ、先生だってよくわかるのじゃないですか? 不意に車が暗い影から現れ出て、ぐん、ぐんこちらに迫るかと思うと、逃れようとしてもつれた足がからまって倒れこんでもまだぐん、ぐん迫る車に腿まで押しつぶされるのは、一息に気を失えないならそれだけ恐ろしい体験じゃなかったですか?」

 さきほどまでのあわれに乞う眼にいまは卑しく飢えた笑いをあふれさせて、子供が見ていた。戸口のあたりの気配が鈍く張り出してき、視界を隅から圧すたしかな異物となってそこに滞った。それだけはまだすがりつく子供の声が耳の奥にけだるく居残って、恥の虱ががっきとおれの背にかじりついた。周りの子供らはおだやかに面をふせていた。熱い頭でおれはとっさに何か支えるもので車椅子から降り立とうとして、椅子の肘掛けに腕をふんばったが無残に尻から落ち、あたりを見回して、またそれをくり返した。腕に力をこめ肘をふるわせまた無残に尻を沈ませて、おれはおれの飼うものに手を噛まれると恥に燃える頭で考えた。おれは脚をもがれ、おれがしばるものにしばられはりつけにされる。おれはおれの思いがけなくふいにされた自由を思った。視界の隅で薄く笑うものから逃れようといそいでとり直し、テキストの唐突なところを読み上げ始めたが、弟はもういないのには気がつかなかった。

 月に二度、弟はおれに性的なガス抜きを行った。おれがさかしい男子生徒に嗤われた晩がその一日にあたっていた。暗い部屋に露のおれの性器を弟は含み、舌をまとわせた。腰の奥から充実した塊が盛り上がってき、そのあいだおれはああ、ああ、とあわれな声をあげた。腰から性器にかけてふいに真空が広がった一瞬ののち、大きな快い波に押されるように射精した。眼の前が昏み、喉から熱い息が洩れて宙を仰ぐと視野の隅で弟がこちらを見上げ、ずずず、ずず、と口からあふれる白いものが垂れないようにすすっているのだった。背と腹の破れ目からトンボの体液をすする弟が、快感に満ちた頭をよぎり、おれはああ、と思った。弟はペットボトルに集めたおれの尿をトイレに流す代わりに、それを堆肥にして土を肥やし、その土を虫たちは喰い、あるいはその上を這いまわり大きくなる。虫たちが体の破れ目からあふれさす黄白色のもの、それはおれを端的に打ちのめし恥ずかしく戸惑わせる。おれたちは飼われていた。おれは唐突として大きな暴力に襲われ車椅子にしばりつけられて、虫たちは弟に籠におしこめられて、その自由の下に等しく養われていた。あの夜トンボがあげただろう夢みたいな呻きが喉をきつく締めつけていたが、おれは小ざかしい男子中学生の嘲弄ひとつまともに圧伏させられない男だという想念の恥の感覚でそれを圧しこめようとした。だがそのときまた弟の舌がもたらした快楽の波が躰を崩すようだった。恥はすごすごと意識の陰にしりぞいた。――どうだい、ねえ、どうだった、と弟が口をまだいっぱいにしてたずねた。おれは――ああ、ああ、と快でとろける頭で弟を見た。